何のために「勉強」するのでしょう。「勉強」したら何の役に立つのでしょうか。
「勉強」と「学習」は何が違うのでしょうか。
答えを考える前に、まず「勉強」とは何なのか考えてみるべきだと思います。
「勉強」とは
「勉強」と「学習」の違いについて考えたことはありますか。
「勉強」と言う言葉の意味を調べてみました。
勉強
努力をして困難に立ち向かうこと。熱心に物事を行なうこと。励むこと。
気がすすまないことを、しかたなしにすること。将来のために学問や技術などを学ぶこと。
学校の各教科や、珠算・習字などの実用的な知識・技術を習い覚えること。学習。
社会生活や仕事などで修業や経験を積むこと。
実は「勉強」≒「学習」ではありません。「学習」は「勉強」と言う言葉が持つ意味のほんの一部でしかなかったのです。
「勉強」の意味を読むと、どうやら「勉強」はもともと、けして楽しいものではなかったようです。
勉強を楽しむ?
「楽しくなければ勉強ではない」とか、「勉強を楽しむ」などの言葉を見たり聞いたりしたことはおありでしょうか。これらは実は最近になって使われるようになった言葉です。ゆとり教育が盛んになり始めた頃、教育に関わるある企業がキャッチコピーに使った(「楽しくなければ勉強じゃない、2日に1枚15分」などなど)のがどうやら始まりのようです。逆説的な表現がとても斬新な印象であったことを、当時、同じ業界にいたyamaはよく覚えています。(薬師丸ひろ子のデビュー作、映画「野生の証明」のキャッチコピー「優しくなければ男じゃない」のパクリだという説もあります。)
本来の意味から考えると、楽しく感じられる様になった時点で、「勉強」はもはや「勉強」ではなくなってしまうのではないでしょうか。これを忘れてしまうと、子どもたちに「勉強」させる意味がわからなくなってしまいます。例えば、受験「勉強」は、誰が考えても楽しいはずがありません。「楽しくなければ勉強ではない」などと考えていたのでは、けして続けることはできないでしょう。楽しく学習することはできても、楽しく「勉強」することはできないのです。否、むしろ、楽しくなってしまったら「勉強」の意味もなくなってしまうのではないでしょうか。受験「学習」などと言う言葉がないのはそのせいでしょう。
昔の人は「南無八幡大菩薩、我に艱難辛苦を与え給え」などと神仏に祈ったそうです。「艱難辛苦」を乗り越えることで人間が成長すると考えていたからです。「勉強」≒「修行」だったのでしょう。「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす」などの言い伝えも同じ様な考えから生まれたのだと思います。子どもに「勉強」をさせるのも同じではないでしょうか。「かわいい子には旅をさせよ」の諺も、もともとそんな意味だったのです。
大人になると、気が進まなくてもやった方がいいことや、嫌でもやるしかないこと、がたくさんあります。おそらく「勉強」は、大人になってから、やる気が出ないことや嫌なことから逃げ出したりしないようになるための練習や訓練なんだと思います。
「楽しくなければ勉強じゃない」とか「楽しみながら勉強する」などの言葉は、絵空事のような夢物語、ある意味で「嘘」だと思います。ニンジンやピーマン嫌いの子どもに、「美味しいから食べてごらん」などと言っているのと同じだと思います。それが「嘘」だと気づいたとき、子どもたちはそれまで以上にニンジンやピーマンを嫌いになってしまうだけでなく、大人のことを信じられなくなってしまうことはないのでしょうか。
もう一度、「勉強」が持つ意味を考え直してみる必要があると思います。
ぶながやっ子ハウスが宿題にこだわるわけ
ぶながやっ子ハウスは塾ではありませんから、子どもたちの成績向上を第一に考えているわけではありません。(全く考えていないのではありませんが、子どもたちの健全育成が上手くできていれば、成績も上がって当然、と考えています。)
ぶながやっ子ハウスが子どもたちに宿題を終わらせて帰すことにこだわる理由の1つめは、帰宅後の家庭での親子の時間や親子の会話を創出するためです。宿題を終わらせていれば、親も子も気持ちにゆとりを持って過ごすことができます。また、終わらせた宿題を話題にすることもできます。「お父さんのときはこんなこと習わなかったなぁ」とか、「お母さんは宿題終わらせるの早かったんだよ~」など、大人の子ども時代の話は、大人と子どもの間の共感や理解を育てます。子どもたちだけでなく大人にとっても重要なことなのです。
子どもたちの健全育成には、健全な親子関係、親子の距離感が何よりも必要だとぶながやっ子ハウスでは考えているからです。
「勉強」としての学習習慣づくり
2つめの理由は、学童期の子どもたちにとっては、学習習慣づくりこそが最適な「勉強」であるからです。
気が進まなくてもやった方がいいこと、や、嫌でもやらなければならないこと、などから逃げ出さなくなる練習方法として、一番効果的で心理的な負担が小さい方法は、そんなことに取り組むことを生活の中で習慣化してしまうことです。習慣化できてしまえば、やる気やモチベーションを奮い起こすこともなく、自然に身体が動き始めます。毎日のように学校から出される宿題や課題は、そんな習慣を身につけるよい機会なのです。
学校から出される宿題や課題は、基本的には、その日に学習した内容です。まだ全く習ってもいないことをいきなり出されることは、まずありません。その日に学習したばかりの内容ならば、少々頑張れば、自分一人の力で「やっつける(完璧にはできなくても、なんとか取り繕うくらいのことをする)」ことができるはずです。自分一人の力で「やっつける」体験は、自己効力感を育てます。子どもたちがまだ幼い頃にそんな体験をたくさん経験させてやることは、とても重要なことなのです。成績を上げたり学力をつけるために学習習慣を育てるのではありません。
学習は子どもたちにとっては、避けては通れない重大な関心事です。一番早くできたのは誰か、とか、誰が先生に褒められたか、など、子どもたちはすぐに競いたがります。
学力や成績などの評価は、子どもたち一人一人の価値はもちろん、子どもたちの人生や生き方にも、ほとんど関係しません。小学生が学力や成績を競っても無意味です。ところが、どれだけ説明しても、それを子どもたちに心から納得させることはとても難しいことです。子どもたちは、頑張って競い合う性質を生まれつき持っているのではないか、と感じるほどです。
そんな子どもたちの発育に、成績や学力は大きな影響を与えます。クラスの中でいち早く手を上げて答える、先生に褒めてもらう、そんなことが子どもたちの自己肯定感を育てていることは否めません。しかし、その一方で、みんなが積極的に答えているのに、自分だけは答えられない、何をすればよいのかわからない。そんな体験を繰り返した子どもの自己肯定感は傷つけられてしまうでしょう。宿題や課題をやっつけていけば、少なくとも答え合わせの時には、自己肯定感を傷つけられることはないのです。
子どもたちにとっての学校は、社会そのものです。学校生活を上手く乗り切ることで子どもたちは社会性を育てます。友だちや仲間とのコミュニケーション能力だけでは社会性は育ちません。その場の空気を読む力や、規範意識、倫理意識なども関わっています。学校生活において宿題を「やっつけ」ておくことは非常に重要です。「やっつけ」ておかなければ、肩身の狭い想いをしまいます。その様な状態を長く続けると、自己肯定感だけでなく社会性の発達を阻害してしまう恐れもあります。
小さい頃から塾に通っているのに、成績が伸びない子どもは実在します。yamaは、そんな子どもたちの学習の様子を、保護者との面談などを通して調べたことがあります。全てにあてはまるわけではありませんが、成績が伸びない子どもたちの中には「教えられる」ことになれてしまって、自分で考えたり「学びとる」姿勢が育っていない子どもたちが少なくありませんでした。
yamaは初めての単元の授業の導入で、これから履修する内容に関連したクイズやナゾナゾを出して、子どもたちの興味や意欲を刺激するのが好きでした。「教えられる」ことになれてしまった子どもたちの多くは、最初から諦めてしまい考えようともしません。中には「まだ教えてもらったことがないからわかりません」などと真顔で答える子どもすらいました。(近頃では、そんな子どもたちの方が多数派になっている様に感じられて、yamaは戦慄を禁じ得ません。)
ぶながやっ子ハウスで子どもたちに宿題や課題をやらせるときに、yamaが常に気をつけていることがあります。
教えたいのかやらせたいのか
子どもにものを教えるときには、「一度に一つずつ」が大原則です。欲張って一度にたくさんのことを教えようとすると、たいていの場合、一つも身につかないなんてことになりかねません。
yamaは「教える」ことと「やらせる(やっつけさせる)」ことを常に意識して区別しています。
教える
問題の考え方やポイントを理解させること、正しいことを身につけさせること。
やらせる(やっつけさせる)
内容にはあまりこだわらないが、一人で最後まで終わらせさせること。
すでに学習習慣が身についている子どもには、「教える」と「やらせる」を同時にさせることもできるでしょうが、まだ学習習慣がついていない子どもにこの二つを同時に身につけさせることは無理です。また仮にできたとしても、どこかに歪みが出てきてしまうでしょう。多くの場合、「教えられる」ことになれてしまった子どもに育ってしまいます。
実は「教える」ことはそれほど難しくありません。しかし、それが本当に子どもたちの身についているかは別問題です。自分の力で「やっつける」習慣が十分に育っていなければ、身につけさせることは、ほとんど不可能です。一見、できるようになったように見えても、それは「覚え」ているだけで「考え」ているのではありません。「教えてもらっていないからわかりません」タイプの子供になってしまうのです。
一方、「やらせる」ことはそれほど簡単ではありません。「一人で最後まで終わらせる」のですから、下手に手出しや口出しができないのです。それなりに時間もかかりますし手間もかかります。ある意味で子どもとの根比べになったりもします。時間と気持ちに余裕がなければ、なかなかできるものではありません。正直なところを言えば、一般のご家庭ではとても難しいことなのではないか、とyamaは考えています。しかし、「やらせる」ことができれば、間違いなく、子どもたちは自然に自分で考えるようになります。
失敗は成功の母
「失敗は成功の母」などと言います。失敗を繰り返し失敗を乗り越えてはじめて、本当の成功にたどりつく、と言う教訓です。yamaは時々、子どもたちから質問を受けることがあります。
「苦手科目を克服するにはどうすればいいか。」
この問いに対しては2つの答えがあります。1つめは「正しい考え方や答えを理解したり覚えたりしてしまえばよい」です。こちらの方が手っ取り早くて良いのですが、人によってはこれだけでは成果が上がらないこともあります。それは、もともと苦手な科目なのですから、理解したり覚えたりすることが困難だからです。そうでなければ、苦手だ、などとは言わないはずです。
もう1つの答えは「次は間違えないように、間違えた原因を覚えればよい」です。間違いを分析して、どこで何を間違えたのか、自分が間違いやすいところはどこか、などを見つけておくことです。これなら、苦手な科目でも対処ができます。自分が間違えたことがあるところを覚えておけばよいのです。細かいことは省きますが、子どもたちにとっても、間違うこともとても大切な経験なのです。
せっかく子どもたちが頑張って問題を解いているのに、横からあれこれ口出し手出ししてしまうと子どもたちは一人で頑張ることができなくなってしまいます。間違えることも大切な経験なのですから、とりあえず最後までやらせてみればよいのですが、子どもたちに間違えさせたくないから、正しいことを覚えさせたいから、早く終わらせたいから、などの理由で、ついつい口出し手出ししてしまう大人たちが多い様に思います。一生懸命考えている途中で口出ししたり手出ししたりするのは、子どもたちを邪魔しているのと同じです。そんなことばかり繰り返していると、子どもたちは自分の力で最後までものを考えることができなくなってしまうでしょう。
ですから、ぶながやっ子ハウスでは、子どもたちが集中して考えているあいだは、絶対に口出しや手出しはしません。子どもたちが本当にわからなくて困っているときにも、子どもたちから求められない限り、手助けもしません。何度も間違えたり混乱したりして、どうしようもなくなったとき、そんな時には子どもたちを見守っているスタッフが声かけをして、yamaのところにまで助けを求める様に促します。yamaの方から近づいて行って教えることはしません。ぶながやっ子ハウスでは、何もせずに待っているだけでは誰も助けてくれません。助けが必要なら、助けてくれる人を見つけ、その人に助けを要請しなければなりません。世の中の仕組みと同じです。
学習習慣づくりを通して
学習習慣づくりを「勉強」と位置づけ、「教える」ことより「やらせる」ことに重心を置くことで、子どもたちにとって大切な力を育てることがでるとyamaは考えています。それだけでは学力は伸びないのでは、と考える方もいらっしゃるかもしれませんが、健全な学習習慣が身についているのに学力が伸びないなどと言うことがあるはずがありません。
学習習慣づくりを通して、子どもたちは次のような能力や特性を身につけたり伸ばしたりすることができるとyamaは考えています。
ストレス耐性
いわゆる「精神的な抵抗力」、不安やストレスや誘惑に打ち克つ力、自制心や自律心
自己効力感の原動力、前頭葉の発達と深く関連している
受援力
困ったときに「助けてくれる人や機関」を見つけ、そこに助けを求めることができる力
社会性
周りの環境や社会と上手く付き合っていくための資質
社交性だけでなく、規範意識や倫理意識なども含まれている
自己効力感
ただ単純に「やればできる」ではなく、「やらなきゃできない」ことを知った上で、自分には「やるべきこと」をすることができる、と言う自覚、失敗を恐れず立ち向かう力
自己肯定感
「ありのまま」の自分を受け容れる気持ち
「ここに自分がいてもいいのだ」と言う感覚、失敗を冷静に受け容れる力
学習習慣づくり以外にも、子どもたちのこのような力を伸ばしてくれるものはたくさんあると思います。スポーツや部活、趣味、習い事などなど。でも、今の子どもたちは思った以上に多忙です。できることなら、生活のリズムを崩さずにできることが良いのではないでしょうか。そんな風に考えたとき、子どもたちの学習習慣づくりを活用しない手はないように思います。yamaが、子どもたちにとって学習習慣づくりこそが最適な「勉強」である、と考えるのは、こんな理由があるからです。
「勉強」を通して身につける能力や特性は、子どもたちが自分の幸せを考えたり見つけたりするのに必要な能力や特性です。また、自分で見つけた幸せを実現するために必要な能力や特性でもあります。その意味で、「勉強は『幸せになるため』に必要」なのだと思います。良い学校や会社に入ったり、偉い人になることが目的なのでは、けしてありません。