以前にもお話ししたことがあると思いますが、ぶながやっ子ハウスでは子どもたちの宿題を終わらせて帰すことにこだわっています。それは、子どもたちの健全育成には家庭での親子の時間が大切だと考えているからです。
家庭教育と家庭学習
家庭教育と家庭学習はよく似た言葉ですが、その内容は少し違います。
一番の違いは、家庭教育は親や保護者が子どもに対して行うもの、家庭学習は自主的かどうかに関係なく子どもが行うもの、と言うところです。また、家庭学習は学力向上が目的ですが、家庭教育の目的はそれだけにとどまりません。家庭教育は、どちらかと言えば、近頃、あまり聞かなくなった情操教育に近いのかもしれません。
情操教育で目差すのは、子どもたちがより良い人生を送るのに必要になるであろう様々な能力や特性を育ててやることです。これには、いわゆる非認知能力が多く含まれます。
極論すれば、家庭学習は家庭教育に含まれます。今でもまだ、子どもたちがよりよい人生を送るために学力は不要とまでは言えないからです。学力の高い子どもは必ず不幸になるわけではありません。より良い人生を送るために、学力はあっても邪魔にはなりません。学力がなくてもより良い人生を送ることはできますが、そのためには学力以外の力を何か見つけなければならないでしょう。少なくとも、その何かを見つけるまでは、学力を避けるべき理由はなさそうです。極端な言い方をすれば、情操教育に家庭学習をあわせたものが家庭教育である、と言えるのかもしれません。
情操教育の大切さ
先ほど、情操教育という言葉をあまり聞かなくなった旨、お話ししました。家庭教育と家庭学習を混同しているのではないか、と言う様な話を耳にすることが増えてきた様にも感じます。
高度経済成長末期頃から都市部を中心に、いわゆる「受験戦争」が過熱し始めました。「教育ママ」などという言葉が生まれ、大学の進学率が上昇し、高校進学率が9割を超え、中学受験も普通になり多くの進学塾が生まれた時代です。そんな「教育熱」の高まりを危惧する様に、情操教育と言う言葉もこの頃にもてはやされました。ところが、それから50~60年経った今、情操教育と言う言葉は殆ど聞かなくなってしまいました。この間に様々な「教育改革」が行われ、「家庭力」等の言葉も生まれ、家庭教育の重要性も見直されつつありますが、情操教育の注目度はそれほど高くありません。近頃になってようやく自己肯定感やレジリエンスなどの非認知能力が注目され始めていますが、実は、それら非認知能力と呼ばれるものの殆どはいわゆる情操です。今後、かつての情操教育が見直されるだろう、とyamaは考えています。
これまで50~60年の間、情操教育は軽視されてきました。大きな意味での情操教育の一環である「道徳」も軽視されました。価値観の多様化が取りざたされる様になった1990年後半頃から、「学校で教えるのはどうか」などという理由で、殆どの学校でまともには教えなくなってしまいました。いじめ問題をきっかけに何年か前から正式に復活させようとしているようですが、いまだにその扱いは学校ごとにバラバラであるようです。この間に、情操を無視して「学力」や「学歴」だけを重んじる教育が日本中に蔓延ってしまった様にyamaは感じています。そのせいで、多くの子どもたちや保護者が苦しめられているのではないでしょうか。
家庭教育のすすめ
家庭教育はけして難しいものではありません。情操教育などと言われると難しく考えてしまいがちですが、けしてそんなことはありません。10歳頃までであれば、ただ、子どもたちと一緒に笑顔で過ごす時間を意識して増やせばいいだけです。そしてできるなら、親子で共通の体験、特に自然に触れる体験を増やしてもらいたいと思います。
子どもには、教えられなくても自分で学び取ろうとする力があり、その力は幼い時ほど大きくて強いのです。「大きくなってから」、「興味を持ってから」などと考えていたのでは、時期を逃してしまいかねません。親子の時間を過ごすだけで、子どもたちは親から様々なことを学び取っています。親子の会話を通して言葉を覚え、コミュニケーション力を育てます。それだけではありません。ヒトは他人の真似をすることで喜怒哀楽の感情やそれにあわせた表情を知ります。好きなものや嫌いなもの、思いがけないことに対する対処や反応の仕方などなど、子どもたちは数え切れないこと、情操を親から学び取っているのです。親子が似ているのは、遺伝のせいだけではありません。知らず知らずのうちに、子どもたちは親を真似して育つのです。「子どもに本を読ませたければ、まず親が読書する姿を見せろ」などと言うのはそのせいです。
実は、これらの情操(≒非認知能力)は、子どもたちの生活や活動に大きく関わっています。一時期話題になった自己肯定感やストレス耐性、興味や好奇心、集中力、思考力などは学力にも大きな影響を与えることが知られています。視力や聴力が弱いために学習で苦労する子どもも少なくありませんが、そんな子どもたちの学力を上げようとして勉強ばかりさせても、あまり成果は望めません。勉強させる前に眼鏡やコンタクトレンズ、補聴器などを持たせてやった方が遙かに効果が出るでしょう。実は、情操に関しても同じことが言えるのです。情操がまだ充分に発達していない子どもには、勉強させる前にまず情操を充分に高めてやっておいた方がいいのです。情操を無視して勉強ばかり詰め込もうとすると、かえって逆効果になってしまうのです。
ゆとり子育て
高度経済成長期以降、日本では都市化が急速に進みました。同時に共働きや核家族も増えてしまいました。それまでの伝統的な生活を捨てて新しい生活を手に入れ気楽に暮らすにはよいことだったのでしょうが、こと、子育てに関しては、けしてよいことだけではなかったのではないでしょうか。共働きや核家族は、親子で過ごす時間を短くしてしまいました。それだけではありません。勉強ばかり積め込もうとする教育が同時期に蔓延したせいで、ますます情操教育はないがしろにされるようになってしまいました。そして、その傾向に拍車をかけたのがゆとり子育てではないか、とyamaは考えています。
1990年代にゆとり教育が始まりました。もともとは「うさぎ小屋に住んで働き過ぎる日本人」との海外からの批判を受けて、公務員である教員の労働時間を短縮するために始まったものです。ところが、これに飛びついたのが教育関連業界でした。その頃すでに、教育関連業界では少子化が問題となっていました。ブランド化を図ったり、価値観の多様性に対応したりして、顧客数の減少を単価をあげることで乗り切ろうとしたのです。エンゼル係数と言う言葉が生まれたのも、雑誌ひよこクラブの創刊もこの頃です。子育てには金がかかって当たり前、子どもはいつも笑顔でいるべきだ、子どもに負担をかけてはいけない等の考えが急速に広がってしまった時代です。それまでの子育ては、貧しい中でも苦労して子どもを育てると言った泥臭く生活感が漂うイメージでしたが、この頃から、豊かで明るくお洒落なイメージに変わってきました。高度経済成長期にTVでアメリカ製のホームドラマを見て、アメリカ風の豊かで明るい生活に憧れた日本人が、それまでの生活を捨て、一気にアメリカ風の生活に変えてしまったのと同じ様に、子育てのイメージは急速に塗り替えられてしまいました。この頃から急速に広まった、明るくお洒落なイメージの子育てのことを、yamaはゆとり子育てと呼ぶことにしています。ゆとり子育てにもよい点はありますし、参考にすべき所も多いのですが、様々な歪みも生み出しています。ゆとり子育ての特徴は、子供を大切に考えるあまりに、今、目の前にいる子どものことで頭がいっぱいになってしまうこと、お洒落な見た目にこだわり過ぎてしまうこと、だとyamaは考えています。
少し前に、SNSなどで、自分の子どもがファミレスで騒いでも注意しない母親が話題になったことがあります。「子どもは騒ぐものだから」などと言う母親の言い分は理解できます。周りも多少は我慢するべきだろう、とyamaも思います。ただ、この話題を見たとき、「この母親は、自分の子どもがどんな風に育って欲しい、どんな風に育てたい、と考えているのだろう」と、yamaは思いました。確かに、子どもは周りに迷惑をかけることもあります。けれども、いつまでもそれが許されるわけではありません。この母親は「自分の子どもがそのまま大人になってもいい」と考えているのでしょうか。ひょっとすると「どんな子どもに育って欲しいのか」など考えたことがないのではないでしょうか。確かに、今、目の前にいる子どもが大切です。しかし、子どもの将来のことを忘れてしまったり、考えなかったりするのはよくないのではないか、とyamaは思うのです。親として、どんな子どもになって欲しいか、は考えておくべきではないでしょうか。だって、親以外に子供のことを考えてくれる人はいないでしょうから。親が考えなければ誰も考えてはくれません。
こんな話題を耳にする時、いつもyamaはサリドマイドの女の子とその母親の話を思い出してしまうのです。
子育てには金がかかる?
子育てには金がかかって当たり前、子育てには金をかけなければならない、と言う考え方には、yamaは大反対です。
もともと子どもには、教えられなくても自分で学び取ろうとする力があります。それを伸ばすには、親の力が一番です。わざわざ金をかけて他人に任せる必要はありません。0~10歳頃までにその力をどれだけ伸ばしてやれるのかが、その子のその後の人生に大きく関わっています。むしろ、わざわざ金をかけて子どもを他人に預けると、結果として親子の時間を削ることになりますから、愛着障害などの弊害が生じてしまうでしょう。塾や習い事に時間を奪われて、充分な親子の時間を過ごせなくなってしまったなら、それこそ本末転倒です。また、幼い子どもにいろいろな物を買い与えすぎると、子どもが持つ様々な能力の成長を阻害してしまうこともあるそうです。ある程度のお金が必要であることは間違いありませんが、子育てにお金をかければかけるほどよいと言うことでもなさそうです。
近頃の小学生の多くに共通して、様々な体験の不足、語彙の不足、日本語を聞き取ったり読み取ったりするのが苦手、などの特徴があります。そんな子どもたちに、むりやり「勉強」を詰め込んでも、なかなか効果は出ませんし、かえって逆効果になってしまうこともあります。
例えば、100まで満足に数えることもできない子どもに繰り上がりや繰り下がりを含む計算を詰め込むとどうなってしまうでしょう。読み方も意味も知らない言葉、使ったことのない言葉の漢字を書かせてばかりいるとどうなってしまうでしょう。「お菓子を食べてしまったら減り、他からもらったら増える」ことを知らない子どもに算数の文章題を解かてばかりいたらどうなってしまうでしょう。「『〇は□より大きい』なら、『□は〇より小さい』」と言うことを知らない子どもに「18は□より3大きいとき、□を答えなさい」などの問題を解かてばかりいるとどうなってしまうでしょう。yamaが子どもなら、きっと、すぐに「勉強」が苦手になり、やがて「勉強」嫌いになってしまうだろうと思います。
悲しく恐ろしいことに、yamaはそんな現実を数え切れないほど見てきました。
100まで満足に数えることや、知らない言葉の意味や使い方、「食べたら減り、もらったか増える」こと、「『〇は□より大きい』なら、『□は〇より小さい』」ことなどなどは、学校や塾ではなかなか教えてもらえません。それなら、いったい誰が子どもたちに教えてやればいいのでしょうか。
これらはすべて、日常生活の中で親が子どもに教えてやるべきことなのです。
日常生活の中で親が子どもに教えてあげられることは、他にもたくさんあります。
子どもに料理を手伝わせながら、重さ(g、kgなど)やかさ(L、dL、mLなど)だけでなく、植物や動物のからだのつくり、化学変化などについて学ばせることができます。DIYを手伝わせながら、長さ(mm、cm、mなど)や力学を学ばせることができます。日常生活の中で体験して感覚的に学び取ったものごとは、子どもたちに強く定着します。実は、小学校で履修することのほとんどが日常生活と密接に関わっています。わざわざ金を使って習い事に通わせる意味はほとんどありません。そして、「勉強」が苦手、「勉強」キライになってしまう原因は、これらの体験の不足であることを、是非、知っておいて欲しいと思います。